2018年5月23日
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nakamura
商家が永年商売を続け、築き上げた信用や知名度を営業上の市場の占有率などの無形財産を、屋号を印した暖簾に例えてのれん権といいます。
商家では永年忠実に勤続した従業員を選び、のれん権の一部を分け与えて独立させることをのれん分けといいます。のれん分けされた店舗は別家と言い、江戸時代にのれん分けの制度が生まれたが、その当時は主家を絶対とした封建性が徹底されていました。
江戸時代にのれん分けが生まれた背景は、当時の職業は家業が代々継承されて行き、その子々孫々の世襲を守るためと、株仲間という幕府公認の同業組合の仲間内で営業を独占することを守るためであると考えられています。しかし、中には株仲間の権利を買い取って新規に商売を始めるものもいました。のれん分けを許されたものには、その商家の家紋とその物の名前が入った暖簾が与えられ、また本家から資本を得て独立して経営者となり新たな商売を始めるものは同業の商売、本家と同じ業者・得意先との取引が禁じられ厳しい制約がありました。また、その契約は子孫の代まで続くものであり、これは大商店になればなるほど厳しくなり、中小はもう少し情味があったといいます。...
2018年5月14日
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暖簾の棒を通す仕立てには定式があります。
乳(チチ):暖簾をかけるには上端部に棒を通すための輪状の布を取り付けます。それを乳(ち・ちち)と呼ばれ、関東に多く見られます。和の印象が強くなります。
袋(フクロ):棒を通しを一連で縫い付けて袋状の仕立てで、京阪で用いられていたと言われています。現代ではモダンな印象があります。
露(ツユ):露とは暖簾の垂れの空き止まりに三角形の染革、色布を縫い付けたもで爪結とも書きます。これは遊女の暖簾などに用いられており、紅絹の露は新人女郎の目印でもありました。
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2018年5月10日
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日除け暖簾は1枚の布の上下に竿を通して軒先から道路へ斜めに掛けます。
1枚布のため風の逃げ道がなく、風に煽られるとバタバタと太鼓をうつような音がすることから太鼓暖簾とも呼ばれました。広い面積から広告の謳い文句が染め抜かれることも多く、三井の「現金掛け値なし」は日除け暖簾に染められていました。また、江戸時代に京阪に日除け暖簾はなく、これは京阪の道が狭いため普及せずに、道の広い東海道の宿場町や江戸で使用されていたからであると考えられています。水引のれんと組みああせて間口を覆う使い方も多く見られました。
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2018年5月9日
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花嫁暖簾は石川県で現在も続く風習です。
読んで字のごとく、花嫁が婚礼のときに用いる嫁入り道具の暖簾で風習自体と合わせて花嫁暖簾と言います。暖簾自体は華やかでめでたい着物の様な色彩が特徴で、地域の伝統工芸である加賀友禅で染められることが多いです。掛ける日は婚礼の当日で、花嫁の仏間に掛けて暖簾をくぐってご先祖さまに挨拶をし、結婚式に向かいます。式の後、1週間暖簾は掛けられその後は大切に保管され、代々の嫁入り道具として受け継がれていきます。婚礼という儀式を経て婚家へ嫁ぐ内と外を暖簾で形容した文化です。...
2018年5月8日
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通常の暖簾の定尺は鯨尺の3尺で1メートル13センチです。
この長さを基準に長さによって名称がつけられています。幅は間口に合わせているが、2幅の他は七五三の縁起に合わせて奇数が多いです。半暖簾は定尺の半分の寸法で1尺5寸で56.7センチほどの暖簾を言い、店内を様子や商品を見せたい店が用いました。珠暖簾などもこの寸法が多く見られます。長暖簾の定尺は4尺2寸(1メートル60センチ)を定式としており、髪結いや医者など外からの目を隠したい店が用いていました。また、呉服店では呉服の日焼け防止と客がゆっくり品を見られるようにとの配慮から長暖簾を使用していました。
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2018年5月7日
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水引暖簾:商家が軒先いっぱいに水引の様に長く横にかけた暖簾。
水引暖簾は、水引の様に軒先に丈が短く横幅目一杯に掛ける暖簾をいいます。多くの水引暖簾にも紋やロゴを染め抜きました。元々は1枚布で庇の荒壁を隠す装飾だと推測されており、それが室町後期に暖簾の形となり、商家の広告となりました。江戸時代に江戸では庇の上に暖簾を掛けており(京阪にはなかった)、これは庇の下だと屋内が暗くなってしまうのを防ぐべくしてできたためで、庇上の看板の走りだとも考えられています。現在は看板が主流で庇上の暖簾は全く見なくなりました。写真の様に日除け幕と併せて掛けることも多いです。
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2018年5月3日
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明治時代に入り商法大意が発令され、株仲間制度の廃止で商売が自由となり、その考えは大きく変わりました。
これは起業の機会ともなり、大商店は他業界への参入を可能にしました。また、従業員も主家と話し合いの末、支店という名目でののれん分けも可能となりました。当時の多くの従業員は、徴兵されない場合数年を主家で働き給料を貯めて独立しました。しかし、自己資金だけでは足りないので、主家の視点というのれん名をもらい、仕入業者にも主家の口添えのもとで商売を始めました。江戸時代との大きな変化は、支店が大きく普及したことでした。...
2018年5月2日
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のれん分けの発祥について
商家が永年商売を続け、築き上げた信用や知名度を営業上の市場の占有率などの無形財産を、屋号を印した暖簾に例えてのれん権といいます。商家では永年忠実に勤続した従業員を選び、のれん権の一部を分け与えて独立させることをのれん分けといい、のれん分けされた店舗は別家と言いました。江戸時代にのれん分けの制度が生まれたが、その当時は主家を絶対とした封建性が徹底されていました。江戸時代にのれん分けが生まれた背景は、当時の職業は家業が代々継承されて行き、その子々孫々の世襲を守るためと、株仲間という幕府公認の同業組合の仲間内で営業を独占することを守るためであると考えられています。
のれん分けを許されたものには、その商家の家紋とその物の名前が入った暖簾が与えられ、また本家から資本を得て独立して経営者となり新たな商売を始めるものは同業の商売、本家と同じ業者・得意先との取引が禁じられ厳しい制約がりました。また、その契約は子孫の代まで続くものであり、これは大商店になればなるほど厳しくなり、中小はもう少し情味があったとのことです。つまり、非常に親の力が強く、現代に比べて強制力の強い契約でした。...
2018年5月1日
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江戸時代では、暖簾の色は業種によって「ある程度」決まっていました。
色数の限られていた時代では、地色としては紺・藍・縹・柿・茶・浅葱などで、それに屋号などを白抜きしたのと、白地に墨で文字を入れたのが主でした。色の決め事に関しても商家が自店の伝統色を受け継いでいるなど実はそこまで決まった定式はなく曖昧なものでした。しかし、暖簾を広告媒体として用いる様になり自然発生的に色の大まかな定式ができたのは当時の風俗を想起させる面白さがあります。
a) 紺・藍:最も多く暖簾に使用される色であった。藍に虫除けの効果があるため、呉服商が用いたり、一般的な手堅い店がこの色を使っていた。
b) 縹(空色):派手な縹色は吉原の遊郭や引手茶屋の店先で使われていた。
c) 柿:柿渋で染めていたことから柿色と呼ばれていた。色味は歌舞伎の定式幕の茶色。遊郭で遊女の上品の太夫がいた店にだけ許された色とも言われており、太夫名を許された印として柿色の暖簾を与えられ、太夫のいる店は柿色、その他は空色・紺色が多かった。他にも一部の呉服店や料亭も柿色の暖簾であった。
d) 茶:赤みがかった茶の柿色に対し、黄味がかった茶色で主に煙草商が用いた。
e) 浅葱色:藍より淡い青。遊所で主に用いられていた。江戸の出会茶屋や大阪の盆屋や、芝居茶屋や相撲茶屋には浅葱色の地色の絵暖簾がかけらえていた。
f) 白:白地の暖簾は菓子商や薬商(当時は砂糖が薬であったため)が多かった。また、菓子店の中にはたれ毎に紺と交互に仕立てた暖簾も見られた。
g) 禁色:高貴な色である紫は一般には勝手に使えない色であった。また、色の印象が強い黄色や緑は暖簾には使われていなかった。
現代でも多様な色彩の暖簾がある中、その自由度に面白さがあると考えるので、あまり定式にこだわる必要はないと考えます。しかし、江戸時代の風俗を感じる上で知って置いても良いかと思います。
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2018年4月14日
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機械生産のない時代、布は大変貴重なものでした。
いまでは当たり前の綿生地も綿(わた)を撚って一本の糸にし、無数の糸を手で織り、生地にしていました。その為、服は破れては継ぎ接ぎをしながら大切に着られており、最後は雑巾になるまで大切に使われていました。その中で刺し子という文化も生まれ、そこからも技術が派生して進化して伝統工芸にもなりました。この様な、最後までものを大切にする「もったいない(mottainai)」という価値観は世界に認められている日本が古来より継承してきた誇るべき文化です。
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