Shin Nakamura | 暖簾(のれん)ディレクター・プロデューサー  暖簾を通じて日本各地の手工業や工芸の新たな関係性づくりに挑戦している。 | 暖簾考07 – 波戸場承龍・波戸場耀次
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家紋の成り立ち

中村

のれんと紋は、店の看板やサインとして共存してきたこともあり、とても共通項が多いと思います。はじめに紋の歴史や変遷について教えてください。

波戸場(承)

家紋は公家の文化から生まれました。はじまりは、天皇家が日月紋という太陽と月を表した紋を使っていたのを公家たちが真似したことに由来します。わかりやすい例は、天皇家から藤原の姓を賜った中臣鎌足は、自分の装束に藤の文様を入れたと言われます。やがて、藤の文様が入った装束を着ていれば藤原氏の人を表すというように、公家のステイタスシンボルとして広まり、その後に「家」という概念が生まれました。その後、武家の世の中になって、戦場で旗印に掲げたり、敵と味方を区別するために紋が使われはじめます。武家が紋を持つことで意匠の数が急激に増えました。鎌倉時代の肖像画を見ると、武将たちは、大紋と呼ばれる大きな家紋を着物に染め抜いていたことがわかります。それが室町時代、裃( かみしも) という正装が生まれ、胸に2つ、背に1つ、それと袴に直接紋を描くようになり、私たち紋章上繪師という職業が生まれたと考えられます。江戸時代になると、庶民には、名字帯刀は許されませんでしたが、なぜか家紋を持つことは許されました。ただ武家の家紋をそのままは使えないので、武家や歌舞伎役者の紋を見たてて自分の家紋にしていました。

中村

江戸時代、庶民の文化として一気に広まったというのは、のれんも同じです。ただ、江戸を最盛期として、そこからはあまり進化してこなかった気がします。

波戸場(耀)

そうですね。家紋も江戸末期から進化が止まり、意匠の数も増えていません。洋装になったことや、苗字ができて紋を使う必要性がなくなったんですよね。時代が変わり、意味合いが薄れていく中で、のれんも家紋もなぜか変えてはいけないものだという固定観念ができてしまいました。もともと庶民の間でゆるやかに広まった文化なので形式に縛られなくていいですよ、ということをもっと提案していけば、止まっていた時間が再び動き出すのではないかと思います。

西洋と日本の違い

中村

日本の家紋は、花鳥風月など自然を題材にしているものが多く、自然との距離感の近さを感じます。一方で、西洋の紋章は、盾やライオンなど、戦いを想起させるものが多いですね。

波戸場(耀)

同じ題材を扱ったとしても表現方法が違います。例えば、西洋の紋章に描かれる鷹は、目で見てわかりやすいように具体的に描かれますが、日本では、鷹の羽二枚を重ねることで、象徴的に鷹を表したりします。また西洋の紋は、結婚した両家の紋を組み合わせたり、モットーを入れたり、紋章の中に情報を入れて飾っていくというのも特徴です。一方で、日本の家紋は、具体的な情報をどんどん削ぎ落とし、抽象的な形の中に意味を込めます。

中村

日本と西洋の違いもありますが、紋章上繪師がつくる紋と、グラフィックデザイナーがつくる紋にも違いがありますよね。やはりグラフィックデザイナーがつくる紋はロゴに近い感じがします。

波戸場(承)

そう思います。でも、実際に紋とロゴはどこが違うのかと聞かれても私たちが明確に答えられないのはもどかしいですね。紋のデザインというのは、私たちの身体の中にしみこんだ経験の中にあって、なかなか口では表せない。でも、私たち二人の間では、これは紋っぽい、紋っぽくないというのは共通のジャッジができるんです。それは不思議です。ただ1 つ言えるのは、紋章上繪師の家に生まれて、子供の頃からものすごい数の紋を見てきましたし、「親父の描く紋はカッコいいな」と思いながら、世の中にある紋を見ては自分なりに「ここはこうした方がもっと良くなる」ということを常に考えてきました。何千種類という数の紋を描き、手を動かしているうちにだんだんと真理が見えてきて、自分なりの紋のデザインというものができてきたんだと思います。

中村

波戸場さんは、上繪師として何万という紋を描いてきた技術をもとにしながら、現在では「イラストレーター」を駆使して紋をはじめとして絵画なども題材にした作品を描かれています。まさに伝統の中の残すべき部分は残しながら、アップデートされていますよね。

波戸場(承)

2010年、はじめてイラストレーターに触れたとき、ベジェ曲線という作画ツールにうまく馴染めなくて、諦めかけたのですが、息子に正円が簡単に描けるツールを教わった事が切っ掛けで、元々分廻し(竹製コンパス)を使っていたので、円の感覚は身について、すんなり描けるようになりました。そこから描くのが楽しくなりどんどんのめり込んで行きました。
今では、円と直線のツールだけで森羅万象を描く「紋曼荼羅」という技法の作品を多数制作しています。浮世絵や仏画を描写した紋曼荼羅もあります。

中村

アウトプットの仕方は、アナログとデジタルで違うけれど、描く原理は同じというのを聞くと、まさに伝統技術の新しい継承の在り方だなと感じます。

誂えることの意味

中村

のれんの製作をしていても、伝統的なものを変えてはいけないという意識をもたれている方が多いと常々感じます。

波戸場(承)

のれんも、家紋も、その成り立ちや意味を誰も教えてこなかったからね。家紋は、日常のいろんなところで使っていたもので、ハレの日のためのものではなく、普段使うキセルやカンザシにつけたりもしていたわけです。当時は、誂えることが当たり前の世の中だから、何かモノを誂えるときには自分のしるしとして紋を入れたのだと思います。そういう意味で、のれんなんか、誂えないとできないものの象徴ですよね。

中村

まさにそうです。誂えるとなると、注文する側も何を作ろうか考えたり、そもそもの本質や意味合いを学びたい気持ちが芽生えると思います。

波戸場(承)

おっしゃる通りですね。江戸時代は、オーダーする側が絶対的にうるさかったはずです。これだけ家紋の数が増えていったのも「ここはもうちょっとこうしてほしい」という要望があったからだと思います。誂えるという文化の中で、伝統は自然にアップデートしていく流れができていたわけですね。

中村

世界が均一化していく中で自分だけのものを作りたいという人やアイデンティティを示すことで差別化しようという動きは今後増えてくると思います。その時に、のれんや家紋の製作に携わる私たちが、その成り立ちや歴史はもちろん、思いを形に表してきたのが日本の文化であることを、きちんと伝えていけたらいいですね。

波戸場 承龍(ハトバ ショウリュウ)・波戸場 耀次(ハトバ ヨウジ)紋章上繪師(モンショウウワエシ)着物に手描きで家紋を描く職人としての技術を継承し、2 0 1 0 年より「デザインとしての家紋」をコンセプトとした活動を親子で開始する。江戸の技とデジタル技術を掛け合わせたデザインは、紋章デザイン/ パッケージデザイン/プロダクトなど、様々な分野へと昇華させている。2 0 1 6 年よりN H K E テレ「デザインあ」「もん」出演/ 紋制作。
株式会社京源 www.kyogen-kamon.com
中村 新1986年東京生まれ。有限会社中むら代表取締役。
大正12年から平成17年まで着物のメンテナンス等を請負っていた家業の中むらを再稼働し、平成27年よりのれん事業を開始。日本の工芸や手工業の新たな価値づくりに挑戦しており、職人やクリエイターとともにのれんをつくるディレクターとして活動。のれん事業の傍らでつくり手の商品開発や販路設計にも取り組んでいる。

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